旭山動物園ヒストリー・その(3)

最終更新日 2016年2月24日

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冬の時代(昭和62年から平成8年)

昭和62年、一時の遊具によるブームも去り、動物園は冬の時代を迎えたのでした。
開園後20年を経過し、飼育舎も古く、動物が逃げないように緊急補修をしたこともありました。また、昭和50年代の流れを受け、遊具には予算が付いても動物舎に予算が付くことは昭和56年の水きん舎以降無く、来園者は徐々に減っていきました。
その中で、いつかこの動物園を何とかしたい。いつか理想の動物園を我々の手で考えたいという飼育員達がいました。

飼育員達によるワンポイントガイド。
動物たちの「夜」の姿を見られる「夜の動物園」。
理想の動物園を目指した「14枚のスケッチ」。
雪の中の動物たちの姿を見せる「冬の動物園観察会」。
また、色々な学会や研究会での発表など。

そのころの飼育員たちの合い言葉は「1人が1日、最低10人の来園者に満足して帰ってもらおう」でした。飼育員が10人だから1日100人、開園日数は年間200日だから、年間2万人。この人たちが「旭山動物園。好き。」と言ってもらえれば大きな力になると。色々な場所で「自分たちの考える動物園」、ありたい「動物園像」を熱く語ったそうです。影では「旭山さんはよくやるねぇ。そんながんばっても入園者が増えるわけでは無いのに」とか「職員のことを考えたら、ウチの動物園じゃ、とてもお盆の期間中に夜の動物園なんてできませんよ」とか言われながら。
市への予算要求も今年こそはと思っても、門前払いどころか、門にも入れてくれない状況が続き、何年も忍耐の時期が続きました。
そして平成6年、あのエキノコックス騒動が起こります。来園者はいっそう減り、「いよいよ閉園間近か。」との噂もまことしやかに流れるようになりました。
そんな中でも、動物園を応援してくれる人々がいました。
ワンポイントガイドに毎週参加し、ビデオに収めた人、「みなさんがんばってください」と動物の顔を模したパンを焼いてくれた人、色々な人が動物園を支えてくれました。地元旭川市民が必死になって支えてくれたのです。確かに入園者は減りましたが、大人の入園者数はそんなに減っていませんでした。
そして平成7年、旭山動物園への風も変わる一つの出来事がありました。