旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想 2旭川地域イオルの骨格
2 旭川地域イオルの骨格
旭川地域イオルの骨格は、上川アイヌの生活・交流にとって最も重要な石狩川とその支流、及びそれをとりまく山地や森林です。
上川アイヌの人々の暮しや文化と深く関わりのある聖地としての嵐山地区、アイヌ語地名や伝説が多く残されている神居古潭地区、そこから広がる神居地区及び江丹別地区の国有林と市有林、かつてのサケの捕獲の場であった石狩川及びその多くの支流のほか、更には天塩川流域も含まれます。
また、近文地区を中心としてアイヌ文化を保存・伝承している民間及び公共の施設がいくつも存在します。
これらの自然環境と伝承関連施設を骨格として、イオルの機能を検討します。これらを整理すると、概要図(資料編)のように、自然が豊富な森林や河川、すでに都市化が進んでいる旭川の市街地に存在する既存の施設、都市域と自然地域が重なりあう嵐山などの地域が、旭川イオルの骨格をなしていることがわかります。
1 聖地としての嵐山(都市公園 嵐山公園)
嵐山は上川盆地の西方に位置しています。嵐山の名称は、山の形と石狩川の流れが京都の嵐山と桂川によく似ているということで付けられたもので、1965年(昭和40年)に都市公園として設置され計画的に整備が進められております。
公園面積は142.2ヘクタールで、東はオサラッペ川、南は石狩川、西は江丹別川に囲まれた標高100mから275mの丘陵山地には、北海道北部に自生する多くの植物とエゾリス、キタキツネなどの小動物が生息し多くの自然生態系が保たれています。
(1) チノミシリ
石狩川に流入するオサラッペ川口の右岸から嵐山公園を含め、それに続く近文山の台地が石狩川に落ちる所までの一帯は、上川アイヌの人たちが古くからチ ノミ シリ(我ら・祀る・山)と呼び、「聖地」として崇拝してきた地域です。
アイヌの人々の信仰の基本は、動植物は勿論、人間によって造られたものもすべて神格あるいは霊を宿しているという観念であります。
これらのものが人間のためにその使命を終えたとき、その霊に対し篤く礼を述べ、大地あるいは神の国に丁重に送り返す重要な祭祀を「送り儀礼」と称し、送り儀礼の行われる場所を「送り場」と呼びます。
石狩川に面したこの嵐山一帯の南側斜面からは、クマ・ウサギ・キツネ・エゾイタチなどの頭骨をはじめ、イナウ(木幣)、生活用具などいくつもの送り場が発見されており、後世の古老達の伝承や談話は、この地帯がアイヌにとって信仰上の祭事を執行する極めて重要な地であったことを裏付けるものです。
(2)チヤシコツ
嵐山一帯にはチヤシコツ(砦跡)と呼ばれてきた所は2カ所あります。
一つは石狩川に流入するオサラッペ川口の右岸、嵐山(弓成山とも)の南端が石狩川に落ちる標高差10m程の台地で、オトウイエウシチヤシ(嵐山チャシ)とも呼ばれています。
ここは、1956年(昭和31年)と1968年(昭和43年)の2度にわたって発掘され、いずれも縄文時代の土器破片や石器が出土したほか、チャシの壕と認められる形跡が確認されています。
もう一カ所は、嵐山展望台から近文山国見の碑に通じる道の中間にあり、渇水期には枯れてしまう程の二本の小沢に挟まれた狭い突兀(とっこつ)部で、チノミシリチヤシコツと呼ばれています。こちらはチャシの構築跡は確認されていません。
また、石狩川を挟んでオトウイエウシチヤシの対岸にあたる神居地区の比高40m程の台地には、明瞭なチヤシコツが確認されています。
これは、嵐山側と対岸の神居側が、声と烽火(のろし)のいずれかによったかは不明ですが、相互に「呼び合う(オトウイエ)」連絡場所であったと思われます。
(3)嵐山の自然空間
嵐山には、500種類以上の植物の生育が確認されており、四季折々に嵐山の美しい自然を見ることができます。この地域には、アイヌの人々が利用していたシナノキ、キハダ、ハルニレ、ハシドイ、ホオノキ、キタコブシ、ヤチダモ、イヌエンジュ、オヒョウ、ドロヤナギ、オオウバユリ、マタタビ、ミヤママタタビ、ガマ、ギョウジャニンニク、ススキ、ヨシ、ヤマブドウ、チョウセンゴミシなど多くの自然素材が自生しています。
また動物の哺乳類では、キタキツネ、エゾリスなど9種類の生息が確認されています。
嵐山公園内には、国内有数の北方系植物の野草園である北邦野草園もあり、市民の自然の中の憩いの場として、また郷土の自然、歴史の学習の場として活用されており、イオル構想の自然と一体となったアイヌの伝統的生活空間の考え方と一致するものであります。
(4)アイヌ文化の森・伝承のコタン
嵐山公園内に、1972年(昭和47年)アイヌ文化の保存と伝承を目的に、旭川市博物館の分館として「アイヌ文化の森・伝承のコタン」が開館しました。
チセ(家)3棟、プー(貯蔵庫)、ヌササン(祭壇)があり、嵐山公園センターにはアイヌ文化資料館が併設され、道具類などが展示されております。
チセではチノミシリカムイノミ(我ら・祀る・山の儀式)が毎年実施され、古式舞踊が披露されています。
また、幕末から明治にかけて、上川アイヌのすぐれた名首長として、人々の指導に一身を捧げたクーチンコロと、アイヌの木彫り熊育ての親とされる松井梅太郎の顕彰碑が近くにあり、毎年アイヌの人々によって供養祭が催されています。
2 神居古潭
(1)神居古潭の位置
神居古潭(かむいこたん)は、アイヌの人々がカムイコタン(神・村)と呼んだ地区で、札幌から旭川への入り口に位置し、古くから石狩川随一の景勝地といわれております。
上川盆地を流れる忠別川、美瑛川、牛朱別川などの支流は旭川で石狩川へ合流し、激流となって下流の山の一角を削って空知平野へ流れていきますが、この石狩川に削られた山の一角である嵐山から神居大橋付近までの渓谷が神居古潭です。
神居古潭の岩石の大部分は、プレートの衝突によって低温高圧で形成された北海道を南北に走る神居古潭変成帯の変成岩という固い岩石であり、地下深部から蛇紋岩に押し上げられて盛り上がったものであります。その後、上川盆地の各河川が石狩川に合流してこの盛り上がりの神居古潭変成岩類を侵食して残ったのが、神居古潭渓谷の姿であります。
旭川市は、この石狩川の侵食でできた円筒状の穴のある岩を、地学上も貴重な存在であることから、市の文化財「神居古潭おう穴群」として指定しております。
(2)アイヌの人々と神居古潭
旭川のアイヌの人たちは、石狩川下流に住むアイヌとの交流や和人との交易には、丸木舟を利用していました。神居古潭の険しい断崖と激流は、最大の交通の難所であり、現在の神居大橋付近で舟を降り、荷物を背負って川岸を運び、または空舟を人力で引っ張り、春志内付近で再び舟に乗るという困難さでした。
川岸に奇岩怪石が連なる神居古潭の景観は、アイヌの人々により多くの伝説を生んでいます。その最も代表的なものとして、アイヌの人々は神居古潭にニッネカムイという大変に力の強い乱暴な神がいて、人間の邪魔をするのだと考え、この地を「カムイコタン(神・村)」と名づけ畏れはばかったといわれています。
このニッネカムイ神と、アイヌの人を助けて神を退治したサマイクルという神にまつわる伝説とそれらに深く関わる地名、奇岩が神居古潭には残されています。
また、神居古潭の渓谷にあるアイヌ語地名は約50を数え、ハルシナイ(食料多くある沢)、ペンケ(パンケ)アトウシナイ(上(下)のオヒョウニレの群生している沢)、シュネウシナイ(松明つける沢=夜の鮭漁する所)、ヨーコシナイ(シカを狙う沢)、イノ(狩猟、漁労をするための仮小屋)など、食料が豊富にある沢を始め有用な植物に関するもの、魚類に関するもの、獣類に関するものがあり、伝説に伴うものを含めてこの地がアイヌの人々の生活と深く関わっていたことを示しています。
3 国有林及び市有林の活用
(1)国有林野の活用
アイヌ文化に深く関わりのある神居古潭を含めた神居地区及び江丹別地区の国有林の旭川市地域内の面積は、約23、750haと広大で、かつ市街地のすぐ側から深い森を形成しています。
この国有林野には、アイヌの人々が伝統的に利用してきた樹木等が豊富で、日常的な生活用品や伝統工芸品、住居等の原材料である自然資源の取得の場として最適であるため、国有林野の活用が必要です。
例えばアイヌの人々が利用してきたシナノキ、キハダ、ミズキ、カツラ、イチイ、ハルギリ、ハルニレ、ハシドイ、ホウノキ、キタコブシ、エゾニワトコ、ヤチダモ、エゾヤマザクラ、オヒョウ、イヌエンジュ、ノリウツギ、マタタビ、ミヤママタタビ、ツルウメモドキ、ヤマブドウ、コクワなどの樹木、ツルの木、実のなる木、草本類、更にウドやフキなどの山菜が豊富に自生しています。
また、国有林野には、ヒグマ、エゾシカ、キタキツネ、タヌキ、ウサギ、リス、テン等多くの動物が生息しており、イオルの再生による狩猟の場としての活用が必要であります。
(2)旭川市有林の活用
天然林の豊富な旭川市有林は、国有林と同様に市街地近郊に位置しており、江丹別拓北地区に575ヘクタール、江丹別富原地区に300ヘクタール、神居地区に117ヘクタールの面積を有しています。
国有林と同様にアイヌの人々が利用してきたシナノキやキハダを始めとする樹木、ツルの木、実のなる木、草本類等が豊富に自生しており、自然素材を採取するため市有林の活用を進めます。
4 河川資源の活用
本市には、石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川を始め大小すべてを含めると162の多くの河川があります。生息する魚類はフナ、コイ、アメマス、オショロコマなど20種類が確認されています。
かつて主要な食料であったサケは、石狩川の堰堤によってほとんど遡上出来ない状況にありましたが、魚道が設置され、サケが除々に遡上するようになりました。しかし、まだ極めて数が少なく捕獲には難しい状況であるため、アイヌの漁労に関する文化の再現のためにも、今後、サケの遡上が増加するような環境の整備が必要です。
現状では石狩川での捕獲は不可能です。そこで当面は、かつて交流していた天塩川流域におけるサケやサクラマスの捕獲も視野に入れた河川の活用が必要です。
5 アイヌ文化伝承の関連施設
(1)旭川市博物館
2008年(平成20年)11月、旭川市博物館の1階常設展示場がリニューアルオープンしました。
新しい展示では、大陸や本州と活発に交易を繰り広げてきたアイヌの歴史と、文化の伝承と創造に取り組む今日の姿を紹介しております。また、分館としてアイヌ文化の森・伝承のコタンが嵐山公園内に設置されています。
同博物館では、ムックルづくりやオオウバユリを使った加工品づくりなどアイヌ文化を学ぶための各種体験学習講座や企画展の開催、資料に関する目録等の刊行を行っております。
(2)カムイの杜公園のチセ
カムイの杜公園は、神居地区に位置する都市公園であり、この公園の一角に北海道アイヌ協会旭川支部が、2005年(平成17年)と2007年(平成19年)に伝承施設として、チセ(家)、プー(貯蔵庫)、エペレセツ(熊檻)、アシンル(便所)を整備しました。
このチセでコタンコロカムイノミ(村を治める神への祈り)やキムンカムイ(山にいる神:ヒグマ)・チロンヌプ(キツネ)・ユク(シカ)のオプニカ(魂を神の国に送る儀式)などが行われています。
(3)川村カ子トアイヌ記念館
近文コタンの歴史を今に伝える個人資料館です。
上川アイヌを代表する川村家が1916年(大正5年)に私費を投じて設立し、アツトウシ(オヒョウニレの樹皮で織った着物)、エムシ(刀)、マキリ(小刀)、チプ(丸木舟)など約500点の生活用具のほか、鉄道測量技師として国内外で活躍した川村カ子ト氏の遺品が展示されています。
チセも併設されていて、同記念館が主催してアイヌ語教室、古式舞踊やトンコリのコンサート、ムックルづくりなどの音楽教室、アイヌ料理教室、ユカラを語るイベントなど各種伝承活動が行われています。
(4)旭川市民生活館
1989年(平成元年)に開館しました。
アイヌの人々と地域住民の相互理解と協力により、近文地区のコミュニティ活動の拠点となっている施設です。会議室、講堂、実技研修室、調理実習室、生活用具を展示しているコーナーがあります。
この施設で、アイヌ語教室や親子アイヌ語教室、アツトウシ(オヒョウニレの樹皮で織った着物)織り講座やチタラベ(ござ)織り講座、ムックル教室、着物やカゴづくり講座、アイヌ料理講座、アイヌ文化伝承工芸展の開催などアイヌ文化の幅広い伝承と普及活動が行われています。
(5)旭川市立北門中学校郷土資料室
1988年(昭和63年)に開館しました。
市内の小学校で長く教員を務めた荒井和子さんが寄贈した貴重なアイヌの生活用具を中心に展示が行われています。
知里幸恵(1903年から1922年)は、その19年間の短い生涯のうち大半を占める6歳から19歳までを旭川で過ごし、生活していた場所が現在の北門中学校の敷地でありました。
そのことを後世に伝えるために、地域の人々の協力のもと、1990年(平成2年)に校舎の前庭に「知里幸恵文学碑」が建立され、2007年(平成19年)には「知里幸恵資料室」が整備されました。
知里幸恵の生誕祭「銀の滴降る日」が毎年、北門中学校と旭川チカップニアイヌ民族文化保存会でつくる実行委員会により開催されています。
6 アイヌ語地名
旭川地域には多くのアイヌ語地名が残されており、その場所の自然や環境、歴史、当時のアイヌの人々の生活を知るうえで大変貴重なものであります。
本市ではアイヌ語地名と日本語地名を平等に併記したアイヌ語地名表示板を作成し、2003年(平成15年)より市内の公共の場所での設置を進めております。
2010年(平成22年)1月までに20か所に設置し、アイヌ文化の理解の促進に努めております。
アイヌ語 | 日本語 | 解説文 |
---|---|---|
|
忠別川 | 波立つ川、急流の川の意味です。川の様子から、チウリキンペツ: Ciw-rikin-pet(波・高くなる・川)と呼ばれたとも言われています。(以下解説文章が長いので省略) |
|
近文 | 鹿さえも簡単につかんで飛ぶことができた大きな鳥が、嵐山の石狩川沿いの崖にいたという伝承があり、そこから石狩川右岸は広くチカプニと呼ばれるようになりました。近文はこれを音訳したもの、鷹栖はこれを意訳したものです。 |
|
オサラツペ川 | 石狩川との合流点の河口が開いている(冬でも凍らないという意味?)とも理解できますが、一方でオ・サラ・ペツ:O-sar-pet(川尻・ヨシ原・川)という説もあります。 |
|
牛朱別川 | 鹿の蹄の跡がほとりに多い川という意味です。アイヌ民族にとって鹿肉は大切な食料の一つであり、蹄といえば鹿の蹄を意味しました。(以下文省略) |
|
アイヌ川 | 周辺にアイヌの人々の住居や通路があったため、明治期に入植した人々からアイヌ川と呼ばれるようになったと考えられます。(以下文省略) |
|
春志内 |
ウバユリやギョウジャニンニクなどの山菜が多く群生している所と解されます。(以下文省略) |
|
神居古潭 | 舟が唯一の交通手段だった時代、両岸から奇岩怪石が迫る激流のこの地は、神(カムイ)に祈りを捧げて通らなければならない所でした。(以下文省略) |
|
広い湾 | (神居古潭の石狩川の神居大橋付近の地名) |
|
神居岩 | (神居古潭の神居岩の名称) |
|
突哨山 | 本来は絶壁そのものをさし、Tus-soは、Tuk-so(突き出た・壁)が転訛したとも考えられている。 |
|
基北川 | 猟運を願って、いつも試し矢を射る川。東川町から旭川市に通じる基線に沿ってその北側を流れるため、開拓期、基北川とされてしまった。 |
|
倉沼川 | しかけ弓の別称は、アマツポともいい、ここでは熊を捕る所という説がある。この川沿いの山腹には、狩猟のための通り道が開拓期までついていたという。 |
|
美瑛川 | この川の水源には硫黄山(十勝岳)があり、そのため川水が濁り、かつては乳白色となって流れ脂ぎった状態だったので、こう呼ばれた。 |
|
岐登牛山 | アイヌの人たちの重要な食料であったギョウジャニンニクがよく採れる山だったので、名付けられた。道内各地にある山名である。 |
|
辺別川 | 小川がいくつも集まって川をつくっているところ。松浦武四郎は、戊午日誌に「幾十条の枝川、網の如し」と記している。 |
|
伊野川 | 明治期には、単にイノと呼ばれていた。漁(猟)のための仮小屋が多かった川だったので、名づけられた。 |
|
ウッペツ川 | 「ウツ」とは肋骨のことで、「横川」又は「脇川」とも訳される。湿地(谷地)の中を流れていた川が、石狩川に直接流入せずに、石狩川の旧流や、地図によっては肋骨のような形で注いでいて、こう名付けられたようである。 |
|
長い崖 | 大正橋下流の忠別川左岸には神楽岡の崖が、約500mに続くため、このように命名されている。 |
|
嵐山 | 「チノミシリ」は、全道各地にあり、それぞれの土地の人が、崇拝する山である。ここは近文コタンの人々が崇拝した山で、近文山を含めた嵐山一円を「チノミシリ」と呼んだ。 |
|
近文 | ここから見える石狩川右岸の写真の蛇紋岩の大きな岩が「近文」や「近文山」の起源となったチカプニの大岩。鹿さえも簡単につかんで飛ぶことができたという大きな鳥が、この岩に住んでいたという伝承から名付けられた。(以下文省略) |
旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想(目次)
- 旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化
- 旭川地域イオルの骨格
- 旭川地域イオルの目指す姿とイオルの機能
- 旭川地域イオルの展開
- 資料編