旭川文学資料館 旭川ゆかりの文学者
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旭川市ゆかりの文学者
旭川ゆかりの文学者について、詩、短歌、俳句、川柳、小説・創作・評論、アイヌ文学・ユーカラ伝承の分類で紹介します。
文学者の写真は、「旭川文学資料友の会」(井上靖については「井上靖記念館」)(外部サイトに移動します。)の所蔵です。
詩
小熊 秀雄(おぐま ひでお)(1901(明治34)~1940(昭和15))
小樽市生まれ。樺太泊居の高等小学校卒業後、昆布採り、材木人夫、パルプ工場の職工など様々な職に従事した経験を持つ。20代はじめから約7年間を旭川新聞社記者として旭川で過ごし(史跡等表示板「小熊秀雄居住地」) 、同新聞紙上に小熊愁吉(醜吉)の筆名で詩作品を、黒珊瑚の名で取材記事を掲載。今野大力、鈴木政輝、小池栄寿らと詩会をひらく。
1926(大正15・昭和元)年に旭川歌話会を創設し、短歌作品を発表。
1928(昭和3)年の上京後は、主にプロレタリア文学(労働者階級の立場に立ち、社会主義思想に基づいて、現実を描こうとした文学)陣営に属し、独自の詩作品を発表。叙事詩、風刺詩の論稿や詩作品のほか、絵画や漫画台本も手がけた。
詩集に「小熊秀雄詩集」「飛ぶ橇」「流民詩集」。常磐公園内に詩碑あり。
今野 大力(こんの だいりき)(1904(明治37)~1935(昭和10))
宮城県生まれ。3歳のときに旭川に移住したが、その後転居。
16歳で旭川に戻り、北海日日新聞社給仕、旭川郵便局の小包係として働く(史跡等表示板「今野大力居住地」)。その間、旭川新聞に抒情的な詩作品を数多く発表し、当時同社で記者として勤めていた小熊秀雄と親交を深める。同時期には中央詩誌にも入選。
1927(昭和2)年の上京後は、プロレタリア文学運動に挺身し、雑誌「戦旗」「働く婦人」等の編集に携わったが、同7年の治安維持法適用による一斉取り締まりで検挙された。
詩集に「今野大力作品集」。常磐公園内に詩碑あり。
鈴木 政輝(すずき まさてる)(1905(明治38)~1982(昭和57))
旭川市生まれ。
旧制旭川中学校入学後、仲間と詩誌を発行。旭川新聞紙上で詩作品が掲載される。
1924(大正13)年に上京し、約9年の在京生活の中で、小説家の川端康成や堀辰雄、詩人の萩原朔太郎らと交流。
旭川に帰郷後は、詩誌「國詩評林」を創刊発行し、詩の新しい形式として七行詩や連詩を提唱。
1936(昭和11)年、旭川にて発会した北海道詩人協会の中心メンバーとして機関紙「北海道文学」を発行。
戦後は、詩誌「情緒」の創刊に携わる。
詩集に「青春」「帝國情緒」「雲雀の歌」
短歌
齋藤 瀏(さいとう りゅう)(1879(明治12)~1953(昭和28))
長野県生まれ。日露戦争に歩兵中尉として従軍する中で作歌を志す。
1915(大正4)年、第27連隊大隊長として旭川第七師団に赴任。その後、転住するが、1924(大正13)年に第七師団参謀長として再び旭川へ。2年間の旭川在住中に、酒井広治、小熊秀雄らと旭川歌話会を発足させる。
二・二六事件に連座。
1939(昭和14)年、歌誌「短歌人」を創刊主宰。
歌集に「曠野(あらの)」「霧華(きばな)」「波濤」「慟哭」など
著書に「獄中の記」「悪童記」「無縫録」など
酒井 広治(さかい ひろじ)(1894(明治27)~1956(昭和31))
福井県生まれ。
1898(明治31)年旭川に来往し、進学を機に上京。東京歯科医学専門学校時代に詩人・北原白秋に師事し、白秋創刊の歌誌「アルス」「多摩」などに参加する。
1921(大正10)年に再び旭川に戻った後は、齋藤瀏、小熊秀雄らと旭川歌話会を創設。旭川歌壇の基盤を作り、1946(昭和21)年旭川発行の歌誌「あさひね」の中心メンバーとしても活躍した。
1949(昭和24)年、旭川文化賞受賞。
歌集に「雪來る前」。嵐山展望台の傍に歌碑(昭和33年建立)あり。
齋藤 史(さいとう ふみ)(1909(明治42)~2002(平成14))
東京都生まれ。齋藤瀏の長女として、小学校1年生のときに来旭。その後、転住したが、小倉高等女学校卒業後に再び旭川へ。
1926(大正15・昭和元)年に父の知己だった歌人・若山牧水から短歌を勧められ、旭川歌話会では酒井広治や小熊秀雄と交流。
1940(昭和15)年、第一歌集「魚歌」を刊行。詩人の萩原朔太郎、文芸評論家の保田與重郎などから賞賛を受ける。
歌集に「歴年」「うたのゆくへ」「密閉部落」「ひたくれなゐ」「秋天瑠璃」「風翩翻』など
随筆集に「春寒記」「遠景近景」など
俳句
石田 雨圃子(いしだ うぼし)(1884(明治17)~1952(昭和27))
富山県生まれ。本名は石田慶封。 中学時代から日刊新聞「万朝報」などに投句を開始。
大学進学や仏教布教師としてのハワイ赴任などによって句作を中断していたが、1919(大正8)年、父の後を継いで旭川慶誠寺二代目住職となってから再開し、俳人・高浜虚子に師事した。
1923(大正12)年、旭川で俳誌「雪舟」を創刊。
1929(昭和4)年、俳句雑誌「ホトトギス」系の俳誌「木ノ芽」(後「古潭」「石狩」)を創刊。
1933(昭和8)には旭川で北日本俳句大会を開催し、北海道で最初の「ホトトギス」同人となる。
句文集「古潭」、句集に「看経余禄」「牡丹の芽」
藤田 旭山(ふじた きょくざん)(1903(明治36)~1991(平成3))
句集に「旭山第一句集」「虚心抄」「旭山句集」
川柳
敦賀谷 夢楽(つるがや むらく)(1886(明治19)~1955(昭和30))
桧山郡江差町生まれ。本名は敦賀谷謙治郎。
1916(大正5)年、司法書士を開業する傍ら、旭川最初の川柳団体「熊(おやじ)会」結成に参加。
1936(昭和11)年、旭川川柳社を創立し、川柳誌「川柳あさひ」を発刊する。
戦後は、北海日日新聞や北海道新聞などの川柳選者として活動。
死去後の1956(昭和31)年、上川神社境内に北海道初の川柳句碑が建立。
小説・創作・評論
板東 三百(ばんどう みつお)【小説】(1906(明治39)~1946(昭和21))
旭川市生まれ(史跡等表示板「坂東三百生誕の地」)。
東北帝国大学卒業後、小説家の宇野浩二に師事。また、小説家・保高徳蔵主宰の文芸誌「文芸首都」同人となる。
昭和14年、出身地である旭川永山に材をとった小説 「兵村」が芥川賞候補となった。
同年に上京し、高校で教鞭をとりながら創作活動に励む。
著書に「兵村」「兵屋記」「雪みち」など
井上 靖(いのうえ やすし)【小説】(1907(明治40)~1991(平成3))
1976(昭和51)年 文化勲章受章。
佐藤 喜一(さとう きいち)【小説・評論】(1911(明治44)~1992(平成4))
小樽市で誕生後、旭川市に移住。旧制旭川中学校を経て、早稲田大学へ進学。
卒業後は旭川に戻り、小学校教師として勤務するなかで、1936(昭和11)年に小説集「霙」、1946(昭和21)年に短編小説集「十勝泥流」を出版。
戦後、旭川の文芸同人誌「冬涛(ふゆなみ)」「VITA」を主宰する一方で、詩誌「情緒」に属して小熊秀雄、今野大力研究の先鞭をつける。
旭川市立図書館長や旭川博物館名誉館長、北海道東海大教授などを歴任し、郷土史の研究にも取り組んだ。
研究書に「小熊秀雄論考」「旭川夜話」 「北海道文学史稿」など
宮之内 一平(みやのうち いっぺい)【小説】(1913(大正2)~2003(平成15))
樺戸郡浦臼町生まれ。
農業などに従事した後、1936(昭和11)年に上京し、小説家・本庄睦男の知己を得る。
鉱山労務者や劇場の照明係といった様々な職業体験を活かした作品を執筆し、1938(昭和13)年、小説「選鉱婦」が文芸誌「文藝首都」の新人創作佳作となる。
1955(昭和30)年、小説「談合」「造材飯場」 が週刊誌「サンデー毎日」大衆文芸懸賞の佳作に入選。
1960(昭和35)年から、郷土総合雑誌「豊談(ほうだん)」(昭和27年創刊)の発行人となる。
著書に小説集「造材飯場」、エッセー集「被写体」、口語短歌集「雑草園」など
木野 工(きの たくみ)【小説】(1920(大正9)~2008(平成20) )
旭川市生まれ。北海道帝国大学卒業後、旭川の北海日日新聞社へ入社。
1953(昭和28)年、文芸誌「冬濤」同人となる。
その後、小説「粧(よそお)われた心」(1953年)をはじめとして、「煙蟲(えんちゅう)」(1956年)「紙の裏」(1960年 )「凍(しばれ)」(1961年)が続けて芥川賞候補となったほか、「怪談」(1962年)は直木賞候補となる。
1970(昭和45)年、直木賞候補にもなった「襤褸(らんる)」で北海道新聞文学賞を受賞。
著書に「凍雪」「襤褸」「樹と雪と甲虫と」「東京風信」「旭川今昔ばなし」など
三浦 綾子(みうら あやこ)【小説】(1922(大正11)~1999(平成11))
ほかの代表作に「塩狩峠」「自我の構図」「細川ガラシャ夫人」「泥流地帯」など
安部 公房(あべ こうぼう)【小説】(1924(大正13)~1993(平成5))
高野 斗志美(たかの としみ)【評論】(1929(昭和4)~2002(平成14))
1955(昭和30)年から12年間、旭川北高等学校教諭として勤務しながら、同人誌「冬涛」に参加。
1964(昭和39)年、新日本文学賞(評論部門)でサルトル論「オレストの自由」が入選。
1967(昭和42)年、三好文夫と同人誌「愚神群」を創刊。
三好 文夫(みよし ふみお)【小説】(1929(昭和4)~1978(昭和53) )
1965(昭和40)年、小説「重い神々の下僕」が直木賞候補となる。
著書に「シャクシャインが哭く」「重い神々の下僕」「アイヌの歴史」など
アイヌ文学・ユーカラ伝承
知里 幸恵(1903(明治36)~1922(大正11))
登別市生まれ。弟は言語学者の知里真志保。
1909(明治42)年、旭川近文に移住(史跡等表示板「知里幸恵居住地」)。
1918(大正7)年、叙事詩人(ユーカラクル)だった祖母モナシノウクを訪れた言語学者・金田一京助の勧めから、アイヌの神謡(ユーカラ)の記録を開始。
1922(大正11)年に上京し、金田一京助宅に寄寓。金田一のアイヌ研究に協力すると同時に、翻訳書「アイヌ神謡集」を執筆推敲。
1923(大正12)年、死去後に「アイヌ神謡集」が刊行。
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