中原悌二郎について
中原悌二郎について
旭川と彫刻との関わりについて語るとき、「中原悌二郎」の存在を抜きにして語ることはできません。
現在、街なかにたくさんの野外彫刻作品が置かれていたり、旭川が「彫刻のまち」と呼ばれているのは中原悌二郎の存在が原点となっています。
1888年、釧路に生まれた悌二郎ですが、港町の気質に馴染めず、厳しい父や兄のもとにいるのがだんだん辛くなり、9歳の時、自ら進んで旭川の叔父の養子となりました。
釧路では8人兄弟で父母にはあまり面倒をみてもらえなかった悌二郎ですが、 旭川では一人っ子だったこともあり、 養父母の愛を一心に受け豊かな自然の中で伸び伸びと暮らしました。 釧路では落第する程だった成績も、 養父母が熱心に勉強を教えてくれたため、学年1番で進級することができました。 また、 絵や歌が得意で、全校生徒の前で代表として歌ったり、友人に頼まれて武者絵を描いたりしました。
こうした一面からも、悌二郎が旭川に慣れ親しみ生活していた様子が想像できます。
15歳になり小学校を卒業した悌二郎は、北海道庁立札幌中学校(現在の北海道立札幌南高等学校)に入学しました。そこで出会った美術教師の影響を受け、画家を志すようになりました。
養父母の反対を受けながらも17歳で上京し、貧しい生活の中、画家を目指して勉強を続けていた悌二郎ですが、 ロダンの弟子として修業した荻原守衛に出会い、 話を聞いたりロダン作品の写真を見せてもらううちに、 彫刻に対する関心が高まっていきました。 そして、すっかりロダンに魅せられた悌二郎は、絵の具代のかさむ画家から、デッサンと粘土でできる彫刻家の道へ向かう決心を固めました。
悌二郎の作品は、当時日本で常識とされていたモデルの外面だけを表現するものとは異なり、 内面をも表現した素朴で単純な作品だったため、良い評価を受けませんでした。しかし、次第にその作風が認められ展覧会で入選するようになりました。 悌二郎の作品を見たロダンの助手のブールデルは「これが彫刻だ」と言い、小説家の芥川龍之介はロシア人の青年をモデルに作った 「若きカフカス人」 を見て「誰かこの中原悌二郎のブロンズ像の若者に惚れる者はいないか。この若者は、まだ生きているぞ。」と言い、多くの人に讃えられました。
悌二郎は、32歳という若さで病気のため亡くなりました。 自分の作品に非常に厳しく、少しでも気に入らない所があると、長い時間をかけ苦労して造った作品でも自分で壊してしまいました。そのため、短い生涯で制作した中で現在まで残された作品はわずか12点しかありませんが、 日本の近代彫刻史に欠かすことのできない彫刻家として高い評価を受けています。
悌二郎の死後40年以上経過した1962(昭37)年に、友人であり彫刻家の平櫛田中、旭川出身の彫刻家加藤顕清らの努力により、悌二郎作品が旭川に初めて帰り現在に至っています。
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