ASAHIKAWA 100 PRIDE~旭川偉人伝Vol.1

情報発信元 広報広聴課

最終更新日 2023年7月6日

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昨年、市制施行100年を迎えた旭川市。その歴史は大きな志を抱いた、旭川ゆかりの皆さんによる挑戦の積み重ねです。このコーナーでは、全国や世界で活躍されたり、まちに貢献されたりする方々をご紹介します。 

スクウェア・エニックス・ ホールディングス名誉会長 福嶋康博さん

昭和22年旭川市生まれ。昭和50年に公共住宅の情報誌を発行する「営団社募集サービスセンター」、昭和57年「エニックス」設立。昭和61年発売のファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエスト」はシリーズ化され社会現象に。平成3年に店頭公開、平成11年に東証一部上場。その後株式会社スクウェアとの合併を経て、平成15年、55歳で「スクウェア・エニックス」代表取締役会長に

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ドラゴンクエストとは?

プレイヤーが主人公となり、竜王を倒すために冒険物語を紐解いていく、日本を代表するロールプレイングゲーム(RPG)。福嶋さんが「エニックス」を創業後に発売。コマンド入力による戦闘やマルチウィンドウシステムの採用など、その後の家庭用RPGに大きな影響を与えた。東京2020オリンピックの開会式での選手入場曲で、ドラゴンクエストの曲が使われた

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© 1986 ARMOR PROJECT/BIRD STUDIO/SPIKE CHUNSOFT/SQUARE ENIX All Rights Reserved.

株式会社スクウェア・エニックス・ホールディングス

スクウェア・エニックス・グループを統括する持株会社(東京都新宿区)。「ドラゴンクエスト」同様に、プレイヤーが主人公となるRPG「ファイナルファンタジー」も世界的な人気に。出版などエンタメ事業も手掛ける

就職活動をしないまま社会へ

 旭川のまちなかの5条8丁目で生まれ育ち、(当時の)中央小学校と常盤中学校に通いました。僕が7歳頃に両親が離婚をして、父親は札幌に行き、母親は旭川で食堂を始めました。
 高校は旭川工業高校の建築科です。2年生の秋に父親から電話で「大学に行け」と言われてから勉強に力を入れて、日本大学の建築学科に進学しました。一時は「僕が得意な構造計算なら日本一になれるかな?」と考えていましたが、「北海道一はあり得ても日本一は難しいな」と思い、建築の道に進もうという気持ちにはなれませんでした。同級生が建築業界への就職活動をする中で、僕は企業家になろうと考えたんです。
 大学卒業後、東京の中野に引っ越しました。駅近にある中野ブロードウェイは多くの店舗が入った複合ビルで、各階、店のジャンルがばらばら。どこに何があるか迷ってしまうほど複雑でした。「これは不便だ」と思い、情報誌を毎月発行して店の紹介をしようと考えました。その予算は月300万円。各店を回り情報誌の発行ができるように営業して、OKという段になったところで、まとめ役の店主から「お宅の社長ってどんな人?会社が登記されていないのだが」と言われ、思わず「登記って何ですか?」と。当時は、そんなことも知らなかったんです。ある経営者に「お前はまだ子供だから、やめておきなさい」と諭され、断念しました。あのとき「これから登記をします。僕が社長です」と言ったら、この企画は実現できたかもしれないと今は思います

海外で得た事業のヒント

 その後、これから伸びる事業は何かを1人で考えていましたが、良いアイデアが生まれませんでした。「アメリカは日本の未来。どんなビジネスをやればいいか見えるんじゃないか」と考え、英語は話せませんでしたが、ロサンゼルスに行くことに決めました。ブロードウェイをはじめ街中を歩きましたが、アイデアは浮かばず、あえて周りに日本人がいないリッチモンドに行きました。
 新聞社を訪ねて「ハウスキーパーをやります」という広告を掲載し、多くの問い合わせがきた中から中心街の家庭を選んで、ハウスキーパーをしました。ためになったのは、その家族の親類や友人宅に遊びに連れて行ってもらって、その人たちの生活や住宅を見ることができたことです。それが50年ぐらい前ですが、今現在の日本よりも住宅は豊かでしたよ。地下に遊び場があり、各部屋にトイレ・お風呂があって、居間は広い。「英語ができないから…」と尻込みしていても何もできません。まずは行動したことで、日本の未来を知れたのは大きかったです。
 次にアジアを半年ほど放浪しました。インドやインドネシア、タイ、マレーシアなどは、昔の日本のような生活ぶりでした。アジアは日本、日本はアメリカのようになっていくと感じました。
 帰国後、日本で結婚してアパートを探していたとき、公社や公団が供給する公共住宅の存在を知りました。入居方法を調べて驚いたのは、募集情報が新聞にしか載っておらず、それをチェックして抽選に申し込むというシステムです。「これは不便だ」と思って、3か月先までの募集情報を集めて情報誌を制作し、入居希望者に届ける事業を妻と2人で始めました。すると、すぐに軌道に乗り、公共住宅の申込者数の30%ぐらいの人が情報誌を購読してくれました。
 あるとき、「これ以上、この事業は大きくならない。別の事業もやろう」と考えました。そこで社員と一緒に始めたのが、その後に多くの事業を生み出す基盤となる「未来会議」です。
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「未来会議」で答えをつかむ

 未来会議では、今後どういう時代になるか、どんな事業が伸びるかを付箋に書いて社員みんなで考え、みんなで評価します。その結果「これからは外食産業だ」となり、持ち帰りの寿司店を始めました。しかし、一定の品質での安定製造ができず、「これは駄目だ」と3か月で撤退。4年で490店ほど出店する計画でしたが、1店舗でやめました。駄目なものは駄目、無理なものはすぐやめる。
 そして再び未来会議です。ちょうどコンピューターが会社に入り始めていて、「これからはパソコンが伸びる」と確信。そこでコンピューターの勉強を兼ねて、東芝の販売代理店になりました。「コンピューターに仕事をさせませんか」と新聞広告を出して営業し、全国の販売店で販売台数が断トツの1位になりました。
 ただ、僕がやりたかったビジネスパッケージソフト事業は、当時はまだパソコンの性能が追い付いていませんでした。ゲームソフトが売れていたのです。そこでゲームコンテストを企画し、作品を募りました。売れたら開発者に印税を支払うという仕組みが注目され、約300作品が集まりました。3千本売れたらヒットとされる時代、発売した13作品のうち11作品が3千本超えという快挙でした。やがてファミリーコンピュータが人気を呼び、そのソフト開発に舵を切ったことで、後に「ドラゴンクエスト」が誕生しました。僕には、コンピューター・プログラム・ゲームいずれの経験もありませんでしたが、未来に大きく伸びていく事業だったから成功したと思います。

未来から考えて行動する

 旭川の未来はどうでしょう。「旭川に、新技術を活用した大企業をたくさんつくるにはどうしたらいいか」。そして「旭山動物園にもっと人を呼ぶためには」「旭川に日本一の観光資源をつくるには」「市の行政のデジタル化を日本一にするには」「市民が日本一過ごしやすい市になるためには」「市で育つ子供の問題を解決するためには」といった問いを立て、成功するアイデアを出し合い、それを行動に移すのです。
 世界から見ると、日本は今、企業も大学も収入もレベルがどんどん落ちています。変化が速いのに現状から考えており、未来起点で考えていないからでしょう。AIやドローン、3Dプリンター、VR等々の新技術が産業や教育、社会を変えていく中、未来起点で答えを出してしっかり行動すれば、変わっていけると思います。行動しなければ何も始まりません。

結び

あさひばしでは、偉人編、逸品編を不定期連載しています。
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