あさひばし 平成28年5月号「特集 スタルヒンと旭川」
スタルヒンと旭川
日本で初めて、個人の名を冠した「スタルヒン球場」。
球場前では、旭川が生んだ大投手・スタルヒンの像が出迎えてくれます。
ロシア生まれのスタルヒンは、
旭川で野球に打ち込み、その才能を開花させました。
今年5月4日、生誕100年を迎えたのを機に
このまちで育った大投手の姿を探ります。
スタルヒンの記録
- 日本プロ野球史上初の300勝投手
- 最多勝利6回
- シーズン最多勝利42勝(歴代最高記録)
- 通算完封83勝(歴代最高記録)
- 野球殿堂入り競技者表彰第1号
スタルヒンを、旭川の誇りとして
プロ野球史上に刻んだ記録
スタルヒン球場の入口に建つ等身大の像。プレートを踏み締め、まさに投球しようとする瞬間の姿で、台座には「スタルヒンよ永遠に」の文字が刻まれています。
プロ野球史上に燦然と輝く記録を残したスタルヒン。旧制旭川中学校(現・旭川東高校)を中退して巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部に入団してからは、やはり名投手の沢村栄治と共に巨人軍の第一次黄金時代に貢献。その後も日本プロ野球史上初の300勝投手をはじめ、数々の記録(上記)を打ち立てました。
様々な人の思いが込められて
ロシア生まれのスタルヒンが亡命を余儀なくされて旭川に住むことになったのは大正14年、9歳のとき。現在の8条通8丁目で父がカフェを開業し、スタルヒンは日章尋常高等小学校に通いました。小学生のときからスポーツ万能だった彼は、旭川中学校に進学して野球部に入り、才能を発揮します。
スタルヒンは旭川で多くの人に愛されていました。球場の命名や像の建立には、ゆかりがある人たちの「旭川が生んだ偉大な投手スタルヒンのことを忘れないで」という強い思いが込められています。
偉大な投手の存在を後世に
像の建立に当たっては、旭川中学校野球部の仲間が中心になって多くの人に呼び掛け、実現にこぎ着けました。
「おいスタル」「おいトシ」と呼び合う仲良しだった故西條敏夫さんは、何度も上京して像建立の寄附金を募ったといいます。「まさに命懸けで駆け回っていました。多くの方の協力のおかげで像が完成したときは、感無量だったと思います」と話すのは妻の西條和子さん(写真左)。また、敏夫さんも設立に携わった旭川巨人スタルヒン会会長の大森六郎さんは「今はスポーツも多様化して、彼のことを知らない世代も多いと思います。生誕100年をきっかけに、改めてスタルヒンの存在を多くの人に知ってもらいたいです」と熱を込めます。
年 | 年齢 | 内容 |
---|---|---|
1916(大正5) | 0歳 | 帝政時代のロシアのニジニ・タギールにて誕生 |
1917 | 1歳 | ロシア革命により、ロシアの大地を転々と移動 |
1925 | 9歳 | 一家で日本へ亡命。旭川に落ち着く |
1926 (大正15・昭和元) |
日章尋常高等小学校(現・日章小学校)に入学 | |
1932 | 15歳 | 旭川中学校に入学。旭川市営球場完成記念で全道中学校野球大会出場。兵庫県の甲陽中学校に入学するが、同校側から異論が出て再び旭川中学校へ |
1934 | 18歳 | 旭川中学校を中退し、巨人軍の前身、大日本東京野球倶楽部に入団 |
1939 | 23歳 | 年間最多勝利42勝を記録 |
1940 | 24歳 | 「須田 博」に強制改名 |
1944 | 28歳 | 太平洋戦争の激化により、敵性外国人として軟禁 |
1955 | 39歳 | 日本プロ野球史上初めて300勝達成。プロ野球を引退 |
1957 | 40歳 | 自動車事故により他界 |
1979 | スタルヒン像を総合体育館前に建立(後にスタルヒン球場に移設) | |
1982(昭和57) | 市営球場を改築。「スタルヒン球場」と命名 |
偉大な先輩と同じグラウンドで夢を追う
甲子園という夢に向かって
旭川中学校時代のスタルヒンは、甲子園出場の夢を懸け、エースとして全道大会に出場。しかし、昭和8・9年と決勝で敗退。スタルヒンは長身を折り曲げ、グラウンドに伏して号泣したといいます。「来年こそは」と仲間と誓い合いましたが、中退して上京したため夢は叶いませんでした。それから82年、スタルヒンが汗を流したグラウンドで、甲子園出場の夢に向かって練習に励む旭川東高校野球部。毎年、スタルヒン像までランニングして活躍を誓う「スタルヒン詣で」から1年が始まります。
支えたチームメイト
同校野球部監督の小倉貴彰さん(写真左)は「偉大な投手であるスタルヒンと、彼を支えたチームワークの素晴らしさを伝えたい」と話します。経済的に厳しかったスタルヒンを、チームメイトは物心両面で支えたといいます。野球部部長の穂積哲哉さんは「様々な苦悩を抱えた人生だったと思いますが、旭川での日々はずっと心に残っていたようです」と言葉を添えます。当時のマーク「A」をあしらったユニフォームで練習に励む後輩たちの胸に、スタルヒンの魂はしっかりと刻み込まれていることでしょう。
スタルヒンとの思い出をまちに刻む
スタルヒンを語り継ぐ
「スタルヒンは日本野球史上に輝く偉大な投手であるだけでなく、その人間性は、私たちが忘れていた大事なことを教えてくれます」と話すのは、かつてスタルヒン一家が住んでいた近くの銭湯・八条プレジャー(8の9)を営む杉尾昇さん(左上写真)。スタルヒンは母が作ったロシアパンを売り歩くなどして家計を助ける親孝行な子供であり、「どんなときでも笑顔でいなさい」という母の教えを守って、怒ることはなかったといいます。
地域の人たちから様々な思い出を聞いてきた杉尾さんは「スタルヒンのことを直接知る人たちも少なくなった今、誰かが語り継いでいかなくては」と、平成23年に「八条スタルヒン通り会」を発足させてスタルヒンの住んでいた周辺を「八条スタルヒン通り」と命名。多くの人に知ってほしいと、のぼりやプレートを設置しています。また、地域の団体と一緒に「夢マップ」を作成。八条スタルヒン通りと市民文化会館周辺の未来像を地図に描きました。
会を立ち上げてから、スタルヒンにまつわる情報が寄せられることも多くなり、杉尾さんは「語り継いでいくことの大切さを再認識しています」と話します。
旭川で育ち、才能を開花させたスタルヒン。やがて野球界に大きな足跡を残すことになるロシアから来た少年を、旭川の人たちは愛し、支えました。そして彼もまた、周囲の思いに応えようと必死に努力しました。このまちには、そうしたスタルヒンの思い出を語り継ぐ人たちがいます。
生誕100年を迎えた今、まちの誇りとして、改めてスタルヒンのことを考えてみませんか。
画像提供:八条スタルヒン通り会、旭川巨人スタルヒン会
詳細 広報広聴課 電話25-5370
生誕100年記念関連事業
企画展示「スタルヒンと旭川」
とき 7月31日(日曜日)まで
ところ 中央図書館(常磐公園)
詳細 中央図書館 電話22-4174
プロ野球公式戦~スタルヒン生誕100年記念試合
内容・とき 北海道日本ハムファイターズ対広島東洋カープ=6月7日㈫ 午後6時試合開始
ところ スタルヒン球場(花咲町2)
※前売券は道新プレイガイド(電話011-241-3871)、旭川振興公社(7の10 第二庁舎6階)他で発売中
詳細 旭川振興公社 電話22-7198、政策調整課 電話25-5358
山田雅人さん講演会「スタルヒン物語」
とき 6月18日㈯ 午後2時~4時
ところ 市民文化会館(7の9)
その他 入場無料(整理券が必要)
詳細 八条スタルヒン通り会 電話23-8022
他にも、スタルヒン球場で、7月にはスタルヒン杯争奪全道スポーツ少年団軟式野球交流大会、9月にはスタルヒンの墓がある秋田県横手市との軟式野球交流試合、スポーツ医学に基づきスタルヒンの能力を解き明かす講演会など、様々な催しが開催されます。ぜひ、お出掛けください。
スタルヒン球場(花咲スポーツ公園施設硬式野球場)
昭和7年に建設された旭川市営球場を、同57年の改築でスタルヒン球場と命名。日本で初めて人名を冠した球場で、スタルヒンゆかりの品々も展示されています。平成25年には夜間照明を設置し、ナイター試合も可能に。プロ野球公式戦をはじめ、全国高等学校野球選手権北北海道大会、スタルヒン杯争奪軟式少年野球大会などが開催されています。一般の方も利用できます。
詳細 公園緑地協会 52-1934