旭川市青少年平和大使の感想文

情報発信元 地域活動推進課

最終更新日 2023年9月8日

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感想文紹介

長崎市で開催された青少年ピースフォーラムと平和祈念式典に参加した令和5年度平和大使の感想文を紹介します。

「平和の実現に向けて 」 旭川市立明星中学校 1年 田中 亮多

「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」
これは、長崎の平和公園にある石碑に刻まれた、水を求めてさまよった少女の手記です。
長崎を訪れ、初めてこの手記を知ったとき、大きな衝撃を受けるとともに、「このような状況に陥ったとき、自分には何ができただろう。」と考えました。
長崎では、平和公園、原爆資料館など、さまざまな施設を訪れることができました。また、被爆の講話を聞くなど、見聞を広げる中で、今を生きられるのは、戦禍を生き抜いた祖先が、命のバトンを繋いでくれたからだと強く感じました。今、私が生きていく理由が分かった気がするのです。
8月9日、今年も長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催されました。平和宣言で、長崎市の鈴木市長は、「核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべきだ」と述べました。核兵器を所有する国があっては、いつ使われてもおかしくないのです。
2017年7月、国連で採択され、それから約3年半が経った2021年1月22日に発効した「核兵器禁止条約」に、日本は今なお署名・批准していません。日本はアメリカの核の傘の下にあるという状況ではありますが、核廃絶を目指すべき道もあるはずです。
たった一発の原子爆弾によって、それからの社会を担うはずであった38,000人の子どもの命が失われました。原爆が社会に与える影響を改めて理解すると同時に、一人一人の命の重みを感じる必要があります。
私は、長崎での学びを通して、様々な世代が、原爆の悲惨さについて学ぶことが、尊い平和の実現に向けて一歩前進できるものと確信しました。そのため、私は長崎で得た経験や思いを、身近な人達から、更には市民をはじめ多くの人に発信していきたいと思います。
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「長崎の派遣を通して」 旭川市立緑が丘中学校 3年 古俣 櫂

今まで、学校などで戦争について学んではいましたが、今回、長崎を訪れ、自らの目で見た、耳で聞いた長崎の被爆の実状は、想像を絶するものでした。
鉄をも溶かす3,000度から4,000度の熱線で灼かれた建物や人。一瞬にして失われた命。命は助かっても、目玉が飛びでていたり、皮膚がただれた無惨な姿。あの日、長崎では、死者約74,000人、負傷者約75,000人の被害が出たそうです。
特に、原爆資料館で見た写真の中で、印象深かったのが、食べる物もない母親が、乳をあげ、栄養のない乳で、さらに弱る乳飲み子。子の亡骸をかかえ歩く母。自らの手で、身内を焼かなければならない現実。どれも今では考えられず、戦争がもたらした、多くの悲しみを強く感じました。そして、「唯一の被爆国、日本」に暮らす私ですが、平和であることが当然のように生きています。しかし、終戦から78年という月日が経ち、生きている被爆者の人が年々少なくなる一方で、戦争を知らない世代が増える中、私たち若い世代は、この恐ろしい悲劇を繰り返さないためにも、過去の悲しみや苦しみを忘れることなく、被爆者の平和への思いを多くの人に知ってもらい、次世代に語り継いでいくことが重要です。
今、私たちは、衣食住に困ることなく、何不自由なく暮らせていますが、一部の国では、戦争をしていたり、人が人を殺す道具をどんどん生みだしていて、核もその一つです。地球全体の核の保有数は年々少なくなってはいますが、核が完全に廃絶となるには、まだ、程遠い数です。「核抑止」という言葉はおどしでしかなく、核保有国同士の関係が悪くなり、核の打ち合いなどになれば、地球は死の惑星と化します。真の意味での世界の恒久平和を願うのなら、この地球から核というものを完全に廃絶し、人が人を殺すのではなく、人が人を救う世の中を目指していくべきだと強く思いました。
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平和大使派遣の様子を掲載しています。ぜひご覧ください。

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