旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想 1旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化

情報発信元 文化振興課

最終更新日 2016年2月24日

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1 旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化

(1) 明治以前

旭川市の行政体の歴史は、明治23年、上川郡に旭川、永山、神居の3村が設置されてから平成22年までの120年間に過ぎませんが、それ以前には豊かな大自然に育まれたアイヌの人たちの世界と歴史がありました。

神居古潭より上流の石狩川流域に居住していたことから、ペニ ウン クル(川上に・居る・人)と呼ばれていたいわゆる上川アイヌの人たちは、南北30キロ、東西20キロ、面積440平方キロにわたる北海道最大の上川盆地を中心にした地域を1つのイオル(伝統的な生活の場)としていたといわれております。

上川盆地は、雄大な大雪山連峰と悠々たる石狩川の恵みを受け、肥沃な沖積地と四方の山地に生い茂る草本と森林、盆地の中央を縦貫する石狩川とそこに注ぐ大小の河川、それに適度の気温・日照・降雨など、自然の動植物を富ませるのにふさわしい環境にありました。

上川アイヌの人々は、石狩川とその支流である牛朱別川、忠別川、美瑛川の各支流筋に小規模なコタン(集落)を形成し、その恵まれた環境の中で採集・狩猟・漁労を生業とするとともに、広域にわたる交易を行っていました。

アイヌの人たちは、日常生活に必要な道具の材料として周辺の自然物を利用していました。また、主要な食料として四季折々の豊富な天然資源の中から、植物ではオオウバユリをはじめ数多くの種類を採集し、魚では石狩川を遡上するサケやサクラマス、ヤツメウナギを捕獲し、特にサケは干鮭に加工し越冬食としていました。

動物ではシカ、テン、キツネ、タヌキ、カワウソなどの毛皮獣も多く捕獲され、冬場を中心に年間を通じてクマ猟が行われていました。

上川アイヌの人々は、上川盆地だけでなく、石狩川下流のアイヌと深く交流し、そこから更に日本海方面とも交流していました。また各支流を遡って大雪山の山々を越えて北見や常呂、猿払などのオホーツク海方面や、天塩川流域、十勝・釧路方面、夕張や沙流川方面ともしきりに交流していました。

また、和人だけでなく、他地域に住むアイヌの人々を介して大陸との交易も行われ、干鮭、クマ・キツネ・ウサギ・カワウソ・テン等の毛皮、クマの胆嚢、クマのツメ、ワシ、マス、アットゥシ(オヒョウニレの樹皮で織った着物)、カバ皮、シナ皮、丸木舟などを交易品としていました。

上川アイヌの人々は、こうした採集・狩猟・漁労を生業として、道内の幅広い地域と交流し、交易などを行う暮らしの中から、独自の豊かな文化を生み出し、長い時間をかけて育んできました。

(2) 明治以降

明治期になると、開拓政策の中で同化政策が推し進められました。明治24年屯田兵400戸の入植が永山村に始まり、東旭川、当麻と続き急速な開発がおこなわれております。

そんな中、上川アイヌの集住という方針に基づくアイヌ保護政策の1つとして、石狩川の右岸の近文地区に、近文旧土人給与予定地が設定されました。明治27年のことです。この政策により、アイヌの人々の生活の中心となる「近文コタン」が形成されることになります。

明治32年に制定された北海道旧土人保護法では、1戸あたり5町歩以内の土地が無償付与されるはずでした。しかし、この給与予定地は明治32年に着工された旧日本陸軍第七師団の設置用地と近接していたことからすぐに利権の対象とされ、土地の付与は保留され続けました。

明治39年、1戸当たり1町歩の土地が旭川町からアイヌに貸し付けられましたが、当初の予定であった無償付与ではなかったため、旭川のアイヌの人々を中心とする激しい抗議と粘り強い運動によって、昭和9年紆余曲折のすえ、旭川市旧土人保護地処分法という独自の法律が制定され、1戸当たり1町歩の土地が付与されました。

こうした歴史を持つ近文コタンは、都市の中に立地するコタンとして、アイヌの人々がそれまで経験したことのない急激な日本文化との接触に直面しながらも、道北地方で唯一アイヌ文化を伝える人々の住む地として現在に至っています。

また、同化政策はアイヌの人々の採集・狩猟・漁労を主体とする生活を農耕主体の生活へと転換させようとするものであったため、アイヌの人々は伝統的な生産手段を失い、それに伴って生活文化の継承も次第に困難になっていきました。

旭川のアイヌの人々は、こうした幾多の苦難に直面しながらも、自然を尊び、誇りを持ち、自立自尊の精神で伝統文化を幾代にもわたり伝承してきました。しかし、一方では、伝承者の高齢化が進む中、後継者が少なく、また市民への理解も十分に図られているとは言えない状況にあります。

こうした現状を踏まえ、アイヌ文化を歴史的遺産にとどめることなく、若い伝承者が育成され、アイヌ文化が多くの人々から理解され親しまれ、将来に向かって発展していく環境を整える必要があります。

(3) 旭川地域のアイヌ文化

慶長9年徳川家康より蝦夷地支配の黒印状を授けられ成立した松前藩は、中世以来の蝦夷島(北海道)における和人の経済活動を継承して、その主要な経済基盤をアイヌ交易に置きました。そして幕府よりその独占権を付与されたアイヌ交易を展開するための施策として、松前地を除く蝦夷島全域を蝦夷地と称して2つに区分しました。

1つは亀田村(現函館市亀田地域)から東へ太平洋岸に沿い根室半島を経て知床半島の知床岬に至る地域で、これを東蝦夷地と称し、もう1つは熊石村(現熊石町)より日本海岸に沿い宗谷岬、さらにオホーツク沿岸から知床岬に至る地域で、これを西蝦夷地と称しました。上川アイヌはこの西蝦夷地域に属していました。この東西の区分はアイヌの人々の移住や拡散、混住などを大きく規制し、現在に繋がるアイヌの文化の違いともなっています。

現在、アイヌの人々の集団が多数存在し、文化や言語が比較的残され、アイヌ文化として一般に知られているのは東蝦夷地のものですが、西蝦夷地は歴史的に和人の圧迫が激しく、西蝦夷地のアイヌ文化、方言のほとんどは失われてしまい、唯一、旭川地域において言語をはじめとする西蝦夷地のアイヌ文化が残されているともいえます。

(補足)東蝦夷地・西蝦夷地の位置図~資料編「東西蝦夷地・場所見取り図」参照


旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想(目次)

はじめに

  1. 旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化
  2. 旭川地域イオルの骨格
  3. 旭川地域イオルの目指す姿とイオルの機能
  4. 旭川地域イオルの展開
  5. 資料編

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